劉備を攻める曹操のもとに密使が到着した。それは劉備が後方として頼みに思っていた荊州・劉表の部下宋忠であった。宋忠の報告によると劉表は既に病死しており、蔡夫人の謀略により、長男劉(りゅうき)を呉への防備として江夏に追いやり、自分が産んだ劉(りゅうそう)を長官として立て、曹操に従うつもりだという。曹操は快諾し、後ろ盾が無くなった劉備を攻めんと、十万の兵を先発せしめた。しかし、後に劉は曹操に暗殺されることとなる。
まもなく劉備軍も荊州の異変を聞くこととなる。そこで諸葛亮は新野で曹操軍の先鋒を蹴散らした後、襄陽に撤退することにした。しかし、見事曹操軍先鋒を打ち負かしたものの、襄陽の蔡は劉備を受け入れなかった。仕方なく劉備は、劉表の長男劉を頼り江夏を目指すことにする。劉備を慕い付き従う一般庶民を連れての逃避行は困難を極めた。絶えず追っ手を振り払いながら、徒歩の庶民に合わせて移動する。
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