曹操は周瑜の病死を知ると、再び呉陣営へ攻め込もうとした。そこで、西涼の馬騰(ばとう)が虚をついて攻めてくるのを防ぐため、許昌へ招いて殺害した。馬騰の息子・馬超(ばちょう)と、馬騰と義兄弟の韓遂は報復を誓い、西涼の全軍を率いて潼関(しょうかん)の関所に攻め寄せてきた。 曹操は自ら軍隊を率いて潼関に向った。しかし、馬超は曹操が到着する前に潼関を落していた。関所前に両軍が対峙した。馬超の突撃と共に開戦する。馬超は名乗りを挙げて曹操を執拗に追い回す。曹操は逃げ回るが援軍により一命を取り留めた。 馬超は次こそ曹操を逃さんと、援軍を西涼から呼びつけた。それを悟った曹操は手薄となった西涼を奇襲するため、2万の兵を曹洪に与え出陣させた。
最強武将伝 三国演義